青年会議所米穀部会ウェブサイト

ビルボード.psd

コラム「説く盛りどんぶり」 66杯目

衣食満足の次の世界

衣食住の充実が目標だった時代、着る物があり、食べるものがあってひもじさが無く、電気が来ている家に住める事が国民の目指す豊かな生活であった。
いつの間にか衣も食も豊富に成って、ユニクロ、青山、春山などで「飽衣」の時代に成り、食べる方では、食品ス-パ-、外食産業チェ-ンに始まり、宅配を含めた物流と情報流、保存技術の発達によって、「飽食」の世界に成ってしまった。
同時に今度は、欲しい物がなくなり、食べたいものは無くなってしまった。
それこそ数の少ない馬鹿高いブランド物か、採れ立ての新鮮な魚介類で保存の効かない物かだけである。

その他の商品と言えば、昔は少量で、受注生産しか出来なかったものが、見込み生産できるようになり、またまた大量に溢れまわる事に成った。ホ-ムセンタ-などに行くと品物は豊富だが、新しいだけで、みんなゴミに見えて来る。
これも発達した技術や物流や情報の結果である。
発達すればする程有り難味が無くなり、手に入り易ければ易いほど満足が出来なくなってしまう。余った物は、100円ショップに換金物として並ぶ事になり、家の中で飽きられたり、忘れられた物はゴミとして錆び、或は腐り、分別を義務付けられて、更にお金を出してまでも処分しなければならないようになった。

何でもそうだろうが、「希少価値」が物の有り難味である。
それが無くなれば、次に来るのは、競争が生むであろう「もっと今までにない物を」の世界である。
最近では「新しい需要の創造」とも言う。どの経営コンサルタントも口を揃えて経営戦略の最重要課題にしている。

商業者は、一体どこまで飽くなき追求をして、競争相手に勝ち、人間と言うものの満足に答え続けるつもりだろうか。
そしてそれは人間の誰にとっても、「権利」で「善」なのだろうか?

疑問に思う。


パパラギと言う本がある。
南国に住むある国の王様が文明国に行った時の驚きと不思議さが、皮肉を交えて書いてある。そして同じように昔ブッシュマンと言う映画があった。
アフリカの原住民の所に空から降ってきたコカコ-ラの瓶が起こす騒動の話である。
私達が忘れてしまった「不自由が当たり前」「無いのが当たり前」の世界の事を思い出させ、考えさせてくれる、一服の清涼剤になる。

今は当たり前ではない。
前にも書いたが、「欲しがらせます、買うまでは」の消費経済はどこまで行ったら終着するのだろう。
住、遊、楽、休にはまだまだ「飽」の文字は当てはまらないが、この分野に新しい需要を堀起こす事で、またまた、経済を活性化させてゆく事に成るのだろうか?(これらの分野はまだまだ未開発であり、規制緩和をする事で大きな需要が見込まれる)

このままの消費経済構造で行けば、そのうち必ず、地球が壊れてしまう。

お笑いにもならないが、住が飽住に成り、飽遊、飽楽、飽休と進む頃には、みんなでよその星に行って不便な原始生活をするのが流行っているかもしれない。

我々はここら当たりで、「足るを知る」と言う事が本当に必要ではないだろうか。
それを知ることが出来れば、本当の豊かさを感じる事が出来るかもしれない。


BON

バックナンバー