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コラム「説く盛りどんぶり」 65杯目

我々の過ち

大きな疑問がある。お米の食味についてである。
お米の食味はご飯で判断すると思うが、どうしてその銘柄や、産地や、作り方や、作り人のこだわりばかりが注目されて、ご飯の炊き方が問題に成らないのだろうか?
「素材が良くても良い物が出来るとは限らない」
この事は世間のみんなも良く知っている。
もちろん、産地、銘柄、つくり人、作り方などはとても大事な食味の要素だとは思う。
しかし、最終ユ-ザ-は、なま米をバリバリ食べているのでは無く、紛れも無くご飯を食べているのである。生産と流通側だけで一生懸命食味を議論し合っても、最後の肝心な所で、正しく扱ってもらわなければ、期待された結果には成らない。そして実際は、大方の場合、正しく扱ってもらっていない。

私はゴルフが好きだが、ゴルフに例えれば、クラブとボ-ルの事ばかり話題にしていて、肝心のその人の腕(やり方、技術)の問題が抜け落ちているようなものである。いい道具といいボ-ルは必要条件だが、充分条件ではない。
まず、少なくとも、技術と言う裏づけを、一定の物にしないと、いくら議論しても建設的結果は得られないのではないだろか。


近年(15~16年前と比較して)品種改良や生産技術向上の結果、お米自体の食味は随分改善されて来ていると思う。
試食試験をしても、めったにこれは不味いと言ったものにはお目にかかれない。
しかし、同じお米なのに、炊飯を知らないが為の、おいしくないと言うクレ-ムが来る。
お客さんとじかに接する所に居る流通の人間なら、誰でも経験があるだろう。
生産者の方でも、直売されている人は、身をもってご存知のことだ思う。
同じものでクレ-ムが来る事は、明らかにおかしな事なのである。クレ-ム品を試験しても、当たり前だが、何ら異常は見つからない。

そこでどう対処するか?大半は商品を変える事で済ましてしまう。お客さんとの間で、炊飯の事など持ち出して機嫌を損ねるよりも、材料を原因にして、問題解決した方が無難だからである。余計な原因追求をしてお客さんを失うよりはるかに良い。
しかし、この事は、何の問題解決にもならない。ならないどころか、問題の先送りであり「やっぱりお米に問題があったんだ」と言う誤解を残す事に成る。更には、「だから産地だ。銘柄だ、作り方だ、つくり人だ」と問題をあらぬ方向へ向けてしまい、今の様な、産地銘柄偏重を生み出す1つの原因にも成っている。
お米は他の食べ物と違って食味が微妙なものであり、しかも1年1作の農産物である。例え同じ人が、同じ田圃で、同じように作っても、毎年同じ物はなかなか出来ない。更に気候の変動に最大影響を受ける。この様な事が解っているのに、すべての関係者が産地銘柄に振り回されている。
流通の川下現場に居る者は、この事をもう一度考えて見るべきである。

なぜこんな事に成ってしまったか?
それは、炊飯の常識や知識が、日本人から失われてしまった事がその根本原因ではないだろうか。
いつ頃からだろうか?
私には、電気でもガスでも同じだが、自動炊飯器や炊飯ジャ-の発明が、その時期の始まりだと思える。スイッチ一つで簡単に炊ける。確かに便利な道具だが、そのおかげで、何故お米が炊けるのか?どうしたらおいしく炊けるのか?どうして保存するのが当たり前なのか?などの基本知識や常識が失われていってしまったのだと思う。
それを正しく伝えるのは、我々の役目だったのだが、なんにもやって来ていなかったのである。食味の事は、産地、銘柄に、全て依存していたのである。それに疑問を感じる事もなく、当たり前と思っていたのである。
この事はお米の食味の現場責任を産地、銘柄へ転化してしまった事であり自分の仕事の使命の放棄であったのである。
こんな状況を作って来て、とても今更、お客さんへ、「やり方が悪い」などとは言えないだろう。
一度大半の国民に思い込まれたら、これを覆すのは大変な事である。
しかし地道に啓蒙するしか手はないだろう。
遅まきながらでは有るが、我々の重要な仕事であると思う。

どこかで昔聞いた事がある。
「お米は田圃で出来るが、お米の味は米屋が作る」という考えは、我々にとって名言であり、勇気が湧き、今でも通用する事だと思う。
ここに生き残るヒントがあると思うのだがどうだろう。

BON

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